オシムに歯が立たず大敗も…東京五輪が契機に。サッカーが日本スポーツ界の旗手となった理由【日本サッカー戦記(終)】
「アジア最弱」と呼ばれていた日本サッカーは、どのようにして成長を遂げたのか。フットボール・ライティングの名手、加部究が送る日本サッカー新旧の歴史群像劇『日本サッカー「戦記」』(カンゼン)から一部抜粋して公開する。(文:加部究)
2019年01月03日(木)10時20分配信
敗戦の中にも希望を見たクラマー
クラマーは、この勝利で「ベスト4まで進める」と考えた。続くガーナ戦が引き分け以上でなら、グループDをトップで通過できる。そうなれば、準々決勝の相手はアラブ連合共和国(エジプト)で、勝算があると踏んでいた。
しかしグループDは、3ヵ国に減ったために公平な条件で試合を組むことが出来なくなっていた。大きな達成感を得たばかりの日本が、今度は中1日でガーナ戦を迎える。
杉山が先制し、1度追いつかれながらも再び八重樫が突き放し、試合は理想的な展開で進んだ。だが取材をしていた賀川には「日本の選手たちの体の力がみるみる抜けていくのが見えた」という 69分に同点弾を許すと、80分には逆転ゴールを喫した。結果は2-3。
「あの10分間だけは眠っていた」と、クラマーは切歯扼腕した。
結局日本は、 準々決勝で東欧の雄チェコスロバキア(当時)と対戦し、0-4で完敗した。賀川の見解である。
「チェコは展開力があるが、スピードはあまりなかったので、引いて守れば持ち堪えられたかもしれない。でもクラマーは敢えて互いに太刀を振り回すような戦い方をして4回斬られた。そんな試合でした」
でも、と賀川が続ける。
「終わった後、クラマーが『今日の八重樫を見てくれたか!』と興奮気味に声をかけました。この大会の日本は、八重樫がどこでボールをさばけるかがポイントでした。31歳、メルボルン大会(1956年)に続き2度目の五輪で、経験もあり脂が乗り切っていた」