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Jリーグ 7年前

大卒後シンガポールのMVP経てJ1デビュー。“逆輸入Jリーガー”、新潟・河田篤秀の軌跡

text by 藤江直人 photo by Getty Images

自らの意思で断ったセレッソ大阪U-18への昇格

セレッソ大阪のFW杉本健勇はU-15時代の同期にあたる
セレッソ大阪のFW杉本健勇はU-15時代の同期にあたる【写真:Getty Images】

 1992年9月18日に大阪府で産声をあげた河田は、中学進学と同時にセレッソ大阪U‐15に加入する。地元の和泉FCの一員として小学校6年生のときに出場した、U‐13セレッソカップで優秀選手に選出されたプレーが見染められ、セレクションなしで迎え入れられた。

 同期には今シーズンのJ1の得点ランキング2位となる11ゴールをあげて、大ブレークを果たしているFW杉本健勇がいる。もっとも、高校進学を控えた2007年の秋。チームから打診されたセレッソ大阪U‐18への昇格を、河田は自らの意思で断っている。

「詳しく言うと、中学2年生のときからサイドバックにコンバートされていて、U‐18に上がれるか、上がれないかの話になったときに一度ダメだと言われたんですね。その後にフォワードへ再コンバートされて、たまたまいい結果を出したら『やっぱりほしい。どうだ』と聞かれたんです」

 すでに阪南大学高校への進学を決めていた。心のなかでは、高校サッカーへの憧れが占める割合のほうが大きくなっていた。U‐18へ昇格したほうが、もしかするとプロへの近道になったかもしれない。それでも河田に迷いはなかった。

「もちろん、U‐15に入ったときはU‐18に上がりたい、と思ってプレーしていたんですけど。一度ダメだと言われてすでに切り替えていたというか、高校サッカーへの楽しみもあったので。すでに自分のなかでは決めているので、という理由でお断りした感じです」

 学校をあげてサッカー部の強化が始まったばかりの高校時代は、残念ながら全国高校選手権、インターハイともに縁がなかった。卒業後に進んだ強豪・阪南大学では、2年生の夏に総理大臣杯全日本大学トーナメント制覇に貢献する。

 前年度のインカレ王者・専修大学との決勝戦で見せた相手を引きずるようなドリブル、シュートに対する貪欲な姿勢はその後も磨かれ、関西学生サッカーリーグ1部でも2度優勝。迎えた2014年。卒業が近づいてきても、Jクラブからのオファーは届かなかった。

「監督やコーチからは『年明けまで待ってみたらどうだ』と言われたんですけど、自分としては年内に正式なオファーをいただいた、アルビレックス新潟シンガポールでプレーすると決めていました。シンガポールリーグ(Sリーグ)で満足のいく結果を残すまでは、という思いを抱いて行ったんですけどね」

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