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Jリーグ 6年前

J2岡山の敏腕社長がJ専務理事に。仰天人事から見える村井チェアマンの青写真

text by 藤江直人 photo by Getty Images, Yasuhiro Suzuki

岡山をJ2に引き上げた敏腕社長の地道な努力

 リクルートの執行役員を務めていた2008年に、Jリーグの理事に就任した村井氏。そのときから、JFLを戦っていたファジアーノ、そして運営会社の代表取締役として陣頭指揮を執る木村氏が気になる存在だったのだろう。第5代チェアマンに就任した2014年1月に、木村氏もJリーグ理事に就任している。

 川崎製鉄水島サッカー部OBが中心となって結成されたリバー・フリー・キッカーズを中核として、Jクラブが不毛だった地に、ファジアーノ岡山が産声を上げたのが2003年。将来のJリーグ参入を目指して、運営会社となるファジアーノ岡山スポーツクラブも2006年に設立された。

 そして、地元の熱烈なラブコールを受けて、まさに乞われるかたちで代表取締役に就任したのが岡山市出身で、東京大学法学部卒業後は世界最大級の投資銀行ゴールドマン・サックスで、マネージングディレクターとしてらつ腕を振るっていた木村氏だった。

 しかし、代表取締役に就任した当時のファジアーノはスポンサーがわずか6社で、年間活動予算は400万円だった。500万円の資本金に対して負債が1000万円を超えている絶望的な状況で、木村氏をして「地道な活動に尽きる」と言わしめた、ピッチの内外で小さな努力を積み重ねる日々が始まる。

 その年にうちに1200万円に増やした年間活動予算は、地域リーグからJFLへ昇格した2008シーズンには2億3000万円にまで増額。スポンサーも260社に増えた結果、収支も初めて黒字に転じ、ピッチ内でもJFLで4位に食い込んで2009シーズンからのJ2参入を決めた。
 
 当時から究極の目標として「日本一の市民クラブ」が掲げられてきた。トップチームの強化だけではなく、桃太郎スタジアムからkankoスタジアムを経て、いま現在はシティライトスタジアムと呼ばれる本拠地を訪れたファンやサポーターに、いかにしてリピーターになってもらうか。

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