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Jリーグ 7年前

横浜F消滅で人生を狂わされた男。天皇杯優勝を喜びきれなかったJrユース指導者【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。【後編】(取材・文:宇都宮徹壱)

シリーズ:フリューゲルスの悲劇:20年目の真実 text by 宇都宮徹壱 photo by Tetsuichi Utsunomiya, Getty Images

横浜Fのために引退も…消滅したクラブ

全日空時代から横浜フリューゲルス一筋でプレーした前田治氏
全日空時代から横浜フリューゲルス一筋でプレーした前田治氏【写真:宇都宮徹壱】

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(合併の白紙撤回を訴える)署名活動は、僕もやりましたよ。若い選手たちと一緒になって、当時新人だった遠藤(保仁)もいましたね。ただし「もう無理なんだろうな」って感じながら、署名を集めていましたね。会社は合併ありきで動いていましたし。

 僕自身は選手と違って、ジュニアユースの指導者という、どちらかというとクラブ側の立場になっていました。でもだからこそ、合併の話を聞いたときは「ふざけるなよ!」って思いましたね。

 僕はまだ(現役で)できたのに、クラブのために引退したんですよ。それなのに、そのフリューゲルスが無くなってしまうって、どういうことだと。その後、選手の次の移籍先がちらほら聞こえてくるようになりましたが、僕らは後回しですよね。

 まず選手、それからトップチームのコーチ、そのあとが育成のコーチですから。選手は移籍先でも結果を出せば、その後もプレーを続けることができます。でも育成のコーチというのは、はっきりした評価の指標なんかないんですよ。将来のプロ選手を育てる役割であるはずなのに、それに対する評価もなく、合併後の身分もどうなるかわからない状況が続きました。

 天皇杯は(99年)元日の国立も含めて、見ていませんね。いや、行こうかなとは思いましたよ。でも、とてもみんなと一緒に喜ぶ気持ちにはなれませんでした。

 むしろあの時は本当に「ふざけんな、フリューゲルス」とか「オレのサッカー人生を返してくれ」くらいの気持ちでいましたから。だからNHKの中継で済ませましたね。

 それでも新横浜の優勝報告会には行きましたよ。いちおうスタッフは全員参加ということになっていたので。祝勝会にも顔を出しましたし、みんな嬉しそうだったので良かったなとは思いました。けど、心の底から喜べない自分がいたのは確かです。

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