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Jリーグ 6年前

挫折の大きさが未来へのエネルギーに。鈴木啓太、燃え尽きて取り戻したサッカーへの意欲【谷間の世代と呼ばれて】

シリーズ:「谷間の世代」と呼ばれて text by 元川悦子 photo by Etsuko Motokawa, Getty Images

原因不明のコンディション不良を経て

2007年には浦和レッズでACL制覇を経験したが、翌年には原因不明のコンディション不良に陥った
2007年には浦和レッズでACL制覇を経験したが、翌年には原因不明のコンディション不良に陥った【写真:Getty Images】

 2007年は浦和と日本代表でフル稼働し、1年の試合消化数は60試合をゆうに超えた。あまりの過密日程とハードワークが祟ったのか、2007年アジアカップ(ベトナム)の時にはドーピングが終わるまでに5時間を要したこともあったほど。

「水を飲んでも飲んでも出なくてホントに苦しかった」と本人も振り返るくらい、彼は身を粉にして献身的なプレーを見せ続けた。オシムジャパンではただ1人の全試合先発。どれだけ指揮官に重用されたか分かるだろう。

 その反動が2008年に一気に来る。病に倒れたオシム監督に代わって代表を率いた岡田武史監督(現FC今治代表)も就任当初は鈴木啓太を頼りにし、2010年南アフリカワールドカップアジア3次予選にも出場させていた。が、3月のバーレーン戦で日本はまさかの苦杯。彼自身も原因不明のコンディション不良に陥った。

「最初は口内炎の大きいやつだと思っていたら、体中で炎症を起こしていることが分かって即座に入院する羽目になりました。何も食べられず体重も10kg落ちた。退院してレッズのクラブハウスに行ったら『お前誰?』と言われたほど、別人のようにやつれていた。

 その後、リハビリして、6月の3次予選に呼ばれましたけど、心と体が離れたような状態で何もできなかった。まさにバーンアウトですよね。

 岡田さんも『そんな状態で呼んで申し訳なかった』と言ってくれたけど、自分の中ではサッカーを辞めたいという思いが募っていました。代表からも遠ざかり、南アで同世代の仲間たちが活躍するところを見たけど『僕には関係のない世界』と思えました」と鈴木啓太は神妙な面持ちで言う。

 苦境の最中にいた2010年、彼は父親と2人で香港旅行に出かけた。現地で最後の晩餐を囲んでいた時、父が「お前も大変だけど、いいなと思うよ」とふと本音を漏らした。

「沢山のタイトルを取った時もあれば、五輪や代表で落選したり、病気になったりする苦しみもあった。嬉しいことと悲しいことの幅が人生なんだ。感情の振り幅が大きい方が絶対に楽しい人生なんだよ」

 この言葉は琴線に触れた。挫折の度合いが大きければ大きいほど、次へのエネルギーも出る。それを父から教えられた鈴木啓太は徐々にサッカーへの意欲を取り戻し、2011年ごろから復活の兆しを見せる。

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