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「移籍は怖い」齋藤学が赤裸々に明かす波乱万丈のキャリア。「昔の齋藤学じゃないと思うかもしれない。でも…」

シリーズ:フットボール批評オンライン text by 藤井雅彦 photo by Getty Images,VEGALTA SENDAI

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海外含む6度の移籍、大怪我、W杯…。齋藤学は酸いも甘いも、すべて経験してきた。そんな波乱万丈なキャリアを、齋藤自身はどう見ているのか。今年33歳となった同選手に、赤裸々に語ってもらった。(取材・文:藤井雅彦/本文5139文字)※全文を読むには記事の購入が必要になります。

20代から変わらぬマインド。「どうすればチームが良い方向に進めるかが大切」

 試合終了のホイッスルがユアテックスタジアム仙台に鳴り響くと、齋藤学はこぶしを握り、静かに喜びを噛みしめた。チームのために走り抜いた汗だからこそ、穏やかに吹く秋風が心地よく感じられた。

 9月30日のロアッソ熊本戦を迎えるまで、ベガルタ仙台は3連敗中と苦しい状況に置かれていた。この試合では自身も先発から外れ、多くの時間をベンチで過ごすことに。ただ、プロサッカー選手として心中穏やかではない状況でも集中だけは切らさなかった。いつ訪れるかわからない出番に備え、試合の流れと味方の状況、相手の心理状態を探っていた。

 堀孝史監督から声がかかったのは1-0で迎えた後半22分。役割はあらためて考えるまでもなかった。

「自分としては試合を勝って終わらせるためにクローザーの仕事を任されたと思っていました。連敗している状況で、後半途中まで1点リードして、残り時間が20分ちょっと。あの状況でチームのために動けるか、動けないか。迷いは一切ありませんでした」

 ゴールチャンスが大半を占めるハイライト集にまとめた時、この試合に齋藤は登場しないかもしれない。それほどまでに地味な役回りを買って出られる理由が、夏の移籍ウインドーで加入した存在意義でもある。

「チーム全体が前半から飛ばしていたので、例えば自分の後ろの左サイドバックにいた(秋山)陽介も最後まで体力が持つかわからない。その状況で自分が前掛かりになっても、サポートがない状況でボールを失うリスクばかり高くなってしまう。相手の守備の枚数を考えても、無闇に仕掛けるのは得策ではない。だからチームの助けになるドリブルや、ほんの少しだけ時間と余裕を作れるボールキープを率先してやりました。試合が終わってからプレー映像を見返しても、判断を間違えたシーンはほぼなかったと思います」

 スタンドプレーに走る気など、さらさらない。チームの駒のひとつとして働き、勝利に貢献する。そこに充足感を覚えているから、自然と笑みがこぼれる。

 ふと、疑問が浮かぶ。個人の欲はないのだろうか。本音をさらけ出した。

「オレだって点を取って2-0にしたい(苦笑)。でも、後ろの選手たちにそのエネルギーは残っていない。だからリスクを冒さないようにして、チームを落ち着かせることが最優先。客観的に見えている部分があるし、自分だけのためにプレーするような年齢ではない。それは今に始まったことではなくて、20歳で愛媛FCへ期限付き移籍してチームを背負うような立ち位置になった時から、ずっとそのマインドでサッカーをやっています。どうすればチームが良い方向に進めるかが大切だから」

 本音と建前ではなく、本音と本心だ。

 10代の若かりし日から第一線で活躍し、勝負の世界に身を投じてきた。酸いも甘いも噛み分けながら、自らの意思で前へ進んできた自負がある。

 経験の幹となっているひとつの要素として、移籍は欠かせない。前述した愛媛FCへの期限付き移籍を含めて、これまで6度の移籍を決断している。

「ある種怖いもの」。“移籍”で得た気づきと成長


【写真:Getty Images】

 一度として同列に並べて比較できない。すべて異なるシチュエーションで、意味合いもさまざま。それでも共通点があるとすれば、いったい何なのか。

「移籍って、ある種怖いものなんです。環境が大きく変わるわけだから。チームメイトやサッカーのスタイルだけでなく、私生活でも住む家や地域が変わる。すべてにおいて怖いし、緊張感がある。その瞬間は苦しい、つらい、嫌な思いをすることも正直、多いかもしれない。だけど、それを乗り越えた時に、頑張った時間が身に付いて力になる。人間としての幅は広がると思います」

 初めての完全移籍となった川崎フロンターレへの移籍は大きなターニングポイントだ。名門、横浜F・マリノスで背番号10とキャプテンという重責を担っていたがゆえに、周囲からの反響も大きかった。

「マリノスからフロンターレに移籍したことは、今でもさまざまな意見があると思います。でも、あの時点ではその選択肢しか自分には残っていなかった。結果として、翌年にアンジェ・ポステコグルー監督が来たことでマリノスはとても強いチームになりました。もし自分がチームに残っていても、前十字靭帯を怪我した膝の状態を考えると、あの強度のサッカーはできなかったと思います」

 名古屋グランパス加入時はスタイルの違いに戸惑った。哲学の違いに順応するには時間が必要で、過ぎていった時間は養分となる。

「フロンターレからグランパスに行った時も大変でした。当時のフロンターレは自分がドリブルしなくても、みんなで良い距離感を作ってパスで崩せてしまうチーム。そこからマッシモ(・フィッカデンティ監督)の守備を重視するサッカーに方向転換するのはすごく難しかった。要求が180度変わったわけですから。その1年後に今度は(長谷川)健太さんが監督に就任してからもなかなか試合に絡めずに苦しい時間でしたけど、それも経験ですよ」

 最近の約1年間で2度にわたる海外移籍も経験している。韓国やオーストラリアでのプレーも、決して平坦な道のりではなかった。異文化との遭遇は、新たな価値観と気付きを与えてくれた。

「精神的に参った」齋藤学を変えたのは?


【写真:Getty Images】

「韓国では、初めての海外移籍だったのでストレスを感じることもありました。チームメイトやスタッフはみんな優しかったけれど、生活面で難しいことが多かったです。どうしても外食が多くなってしまう状況で、油や辛さに適応できなくて(苦笑)。だんだんと精神的に参ってしまって、朝6時半まで寝付けない。ようやく眠ってから昼くらいに起きて、夕方開始の練習に臨むけど、生活リズムとしてはあまり健全ではなかったと思います。

 用意していただいたマンションの部屋がとても質素だったので、途中から無印良品でクッションや絨毯、あとは観葉植物を買ってきました。あとはユニフォーム交換したものを飾ったりしたら、気がラクになっていってパフォーマンスも上がりました」

 異国の地で戦う難しさと自身の弱さと向き合い、乗り越える。攻撃に違いを生み出す選手として重宝され、水原三星のK1リーグ残留に貢献した。

 それでも契約延長のオファーを勝ち取れなかった。本当の理由なのか定かではないものの、「身長が低いから」という理不尽な理由を受け入れ、南半球のオーストラリアに新天地を求める。

「J2やJ3のクラブからは獲得打診の話をもらっていて、もう少し待っていればJ1もあったかもしれない。でも韓国で苦しい経験をして、もうひとつ違う環境でチャレンジしてみるかと。オーストラリアではサッカーよりもクリケットやラグビーの人気が高い。サッカー選手もそれを理解しているので、サッカーを取り巻く環境という面での難しさはありました。

 でもオーストラリアという国はすごく良かった。海が近いところに住んでいて、散歩していたら自然と挨拶が飛び交って、すれ違う人同士がウィンクしたり。フレンドリーで社交的な国で居心地も良かったです。韓国の反省を生かして、ユニフォームもたくさん持っていったのも大きかったです(笑)。マリノスのユニフォームに始まって愛媛FC、フロンターレ、グランパス、水原三星、あとは代表のユニフォームも。全部を部屋に飾っていたから、にぎやかでしたよ」

 苦しい日々も過ぎ去れば良き思い出。少年のように笑ってみせた。

「昔の齋藤学じゃないと思う人もいるかもしれない。でも…」

 6度の移籍とは反対に、あえて動かない決断も。

 それは2013年末のこと。ドイツ1部のヴォルフスブルクから正式オファーが舞い込んだ。悩み抜いた末、横浜F・マリノスに踏みとどまる。左足首の負傷が大きな要因だった。

「ドイツで左足首の遊離軟骨除去手術を受けて、そこでリハビリするイメージが湧きませんでした。その時の自分は海外移籍のことばかりを考えていたけれど、最後の最後で冷静な判断を下せたのかなと。

 足首が悪い状態で通用する自信がなかったですし、あの時の自分は未熟だったと思います。21~22歳なら勢いで行っても良かったかもしれないけど、24歳であの完成度では足りない。ドリブルで仕掛けることしかできませんでしたから。それ以外の部分は能力のある先輩たちにやってもらっていました。だから後悔はありません」

 負傷といえば、2017年9月の右ひざ前十靱帯損傷で長期離脱を余儀なくされた。選手生命を脅かしかねない大怪我で、翌年4月の復帰後も本来のキレを取り戻せずに悶々とした日々を過ごす。

「膝の怪我は、体のバランスを変えてしまう。フロンターレに移籍してから復帰して、ドリブルをしていても自分の感覚に噛み合ってこない。みんなから求められるキレのあるプレーができないもどかしさがありました。それなら自分を変えないといけない。だからサッカーを徹底的に勉強し直しました。本をたくさん読みましたし、ボールの蹴り方や止め方に始まり、顔の振り方や手の使い方、グループ戦術でも攻撃への人数のかけ方、守備の立ち位置など、全部を見直しました」

 ドリブルがサッカーのすべてではない。変化を受け入れ、新たなストロングポイントを磨いていく。ここでも根底にあるのはフォア・ザ・チームの精神で、20代後半という本来ならば最も脂が乗るはずの時期にスタイルチェンジを模索したからこそ今がある。

 かつてのプレー映像を見返すと、そこにはキレキレの自分がいる。

「2017年は1対1の勝負で絶対に負けなかった。その時のプレーを見たら、自分で言うのもあれだけど本当にすごい(笑)。まず存在感がある。だからパスが来るし、相手も構える。3人くらい来るから、横パスやクロスにも効果がある。ドリブルを止められた時に相手チームのサポーターから歓声が沸いたから。

 今のプレーを見て、昔の齋藤学じゃないと思う人もいるかもしれない。でも、これが今の齋藤学だから。あの時のプレーや動きは若いからできたけど、今は年齢を重ねたことでできるようになったプレーがある。怪我をしてできなくなったプレーがある反面、怪我をしてできるようになったプレーもある。

 でもね、最近は新しいトレーナーさんとトレーニングしていて、少しずつ昔の感覚に戻ってきている。練習でもたくさんドリブルしている。サッカーを知ったからこそできるプレーと昔のプレーが両方できれば一番いいよね。ドリブルに関しては自分に期待していいかなって思っているし、楽しみですよね」

「いい人生でしょう」


【写真:ベガルタ仙台】

 気がつけば年齢は33歳。キャリアは晩年に差し掛かっているかもしれない。残された時間がどれくらいあるのか、齋藤自身にも見えていない。

「先のことは誰にもわからないよ。自分でサッカーをやめるという道を選べるのか、それともサッカーをやる環境がなくなってしまうかもしれない。韓国やオーストラリアで過ごしたあとにはそういった時間も経験しているし、仙台も練習生として練習参加してから契約してもらった。いつ終わりが来るのかわからないという覚悟はあります。でも、後悔だけはしたくないから、とにかく現役選手も全うする。仙台が強くなるために残された時間で全力を注ぐ。それが先につながる唯一の道だから。

 20代の頃はピッチ外での活動をいろいろやっていたけど、今は良い意味でサッカーのことしか考えていません。サッカーのことを考えるだけでいっぱいいっぱい。シュンさん(中村俊輔)や(中澤)佑二さんは35歳を過ぎてもバリバリのトッププレーヤーだったし、(中村)憲剛さんは36歳、(小林)悠くんは30歳、アキさん(家長昭博)は32歳でJリーグMVPになっている。韓国にはヨム・ギフンさん、仙台には梁(勇基)さんのような偉大なお手本がいる。だから自分もこれからですよ」

 可能性を追い求めて、走り続ける。ゴールテープの位置は決めず、目標や目的もない。求道者として、とにかくボールを追いかけるのみ。

 喜怒哀楽も波乱万丈も、彼を形容するのにふさわしい四字熟語だ。

「いい人生でしょう。ものすごく濃いし、本気で生きている感じがある。良い時も悪い時も感情の起伏もあるけど、一喜一憂し過ぎることなく毎日を過ごしています。波乱万丈かもしれないけど、サッカー選手はそれぞれ濃い人生だと思います。毎年、毎日いろいろあって、それを他人と比較することはできない。ただね、みんながあまり経験できないことまで足を踏み込んでいることは多いかもしれない(苦笑)。オリンピック(五輪)に出場して、ワールドカップメンバーに選ばれて、リーグ優勝して、ルヴァンカップも天皇杯も優勝して、海外移籍もした。あっ、前十字靭帯も怪我しました(笑)。ちょっと濃すぎるかな」

 最後も茶目っ気たっぷりに笑い、再びグラウンドへ。今だけを生きる齋藤学が、サッカーを楽しんでいる。

(取材・文:藤井雅彦)

【了】

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