A代表でも存在感。設計図には新たな項目
2013シーズンの後半は大野和成、2014シーズンは丸山祐市(現名古屋グランパス)、2015シーズンはアンドレ・バイアが3バックの真ん中を務めるなかで、遠藤は右隣で積極果敢に1対1を挑み、ボールを奪うや前への推進力を発揮。カウンターの起点となる新境地も開拓していった。
図らずも日本代表監督に就任した、ヴァイッド・ハリルホジッチ氏が求めた『デュエル』を実践していた。2015年8月2日。東アジアカップ(現EAFF E-1サッカー選手権)に臨む日本代表に選出された遠藤は、北朝鮮代表との大会初戦でA代表デビューを果たす。
リオデジャネイロ五輪のちょうど1年前。脳裏に描いていた青写真通りだった。任されたポジションは右サイドバック。4バックと3バックの違いはあるものの、指揮官から求められたボールを奪う、どんどん前へ攻め上がるという仕事はクラブでのそれと変わらなかった。
韓国代表との第2戦でも右サイドバックを務めると、中国代表との第3戦ではボランチとして先発フル出場。東アジアカップの日本代表は国内組だけで編成されたが、守備のユーティリティープレーヤーとしての評価を得た遠藤は、海外組も融合したハリルジャパンに継続的に招集されていく。
ベルマーレで3バックの真ん中と右。ハリルジャパンでは右サイドバックとボランチ。さらに、リオデジャネイロ五輪を目指していた手倉森ジャパンではボランチとキャプテン。さまざまな役割を求められた遠藤は混乱するどころか、新たな項目をサッカー人生の設計図に書き加えていった。
「オールマイティーな選手になりたいですね。将来は海外でプレーしたいという思いもありますし、そのときにはボランチでもセンターバックでもプレーできる選手になりたい。いまのサッカーはいろいろなプレーが求められるし、その意味ではだんだんと自分が描く将来像に近づいていると思う」
若いからこそ貪欲になれるし、チャレンジもできる。ベルマーレおよび日本代表でプレーした中田英寿が、21歳だった1998年の夏にセリエAのペルージャへ移籍した。偉大なOBの背中をいつしか追い求めるようになった遠藤は、成長していくうえで独自の作業を積み重ねていく。
「これといった飛び抜けたところがない選手というか、そういうものを作りたくないというか。しっかりと守れてビルドアップもできるように、すべての平均値を上げていきたい。それぞれのポジションにおいて、いろいろな特長を自分の引き出しのなかから出せる選手になりたい」