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日本代表 4年前

日本代表、背番号4の系譜。「アジアの壁」から本田圭佑まで、チームの柱となった選手たち

シリーズ:編集部フォーカス text by 編集部 photo by Getty Images

ドイツW杯

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オーストラリア戦の先発メンバー



監督:ジーコ
戦績:グループステージ敗退

背番号4:遠藤保仁(ガンバ大阪)
生年月日:1980年1月28日(26歳)
個人成績:出場なし

 鹿児島実業高校から1998年に横浜フリューゲルスに加入した遠藤保仁は、同年にアジアユース選手権に出場した。この大会ではボランチの3番手だったが、翌年のワールドユースでは稲本潤一の負傷もあり、7試合すべてに先発出場してU-20日本代表の準優勝に貢献している。

 しかし、シドニー五輪では予備登録メンバーとなり、本大会に出場することはできなかった。世代別代表とA代表の監督を兼務するフィリップ・トルシエの下、小野伸二や稲本がA代表の主力に成長する中で、遠藤がA代表に呼ばれることはなかった。

 2002年11月、ジーコが最愛の母を亡くしてブラジルに帰国し、山本昌邦コーチが監督代行を務めたアルゼンチン戦で初選出、初出場を果たしている。この試合が、国際Aマッチ149試合出場という前人未到の大記録の第一歩となった。

 黄金の中盤を擁するジーコジャパンでの出場機会は決して多くなかったが、中田英寿と稲本が怪我、小野がアテネ五輪出場のために出場を回避した04年のアジアカップではレギュラーとして日本代表の優勝に貢献した。しかし、その後は中田がボランチへポジションを下げ、福西崇史がボランチに定着。遠藤は再び控えに回ることが多くなっている。

 ドイツワールドカップには選出されたが、ダブルボランチには中田と福西が起用された。初戦のトップ下は中村俊輔、4-4-2が採用された2戦目以降は中村と小笠原満男が2列目のポジションに入っている。遠藤はフィールドプレーヤーとしては唯一出場機会がないまま、ドイツの地を去ることとなった。

 ドイツ大会後はイビチャ・オシム監督の下で主力に登りつめ、中田がつけていた背番号7を継いでいる。ワールドカップには3大会連続で選出。指揮官が岡田武史、アルベルト・ザッケローニへと代わっても、遠藤はチームの心臓として日本代表を長きにわたって牽引した。

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