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Jリーグ 4年前

内田篤人が「選手として終わった」瞬間。勝ち負けよりも辛かったのは…【この男、Jリーグにあり/前編】

8月23日に行われた明治安田生命J1リーグ、鹿島アントラーズ対ガンバ大阪の試合を最後に、内田篤人は14年半に及ぶ現役生活に終止符を打った。シーズン途中で引退の決断を下すに至るまでには、どのようないきさつがあったのか。ひざの痛みと戦い続けてきた内田には、試合の勝ち負けよりも辛かったものがあったという。(取材・文:藤江直人)

シリーズ:この男、Jリーグにあり text by 藤江直人 photo by KASHIMA ANTLERS

現役引退を決断したタイミング

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【画像:KASHIMA ANTLERS】

 寝ても覚めても右ひざの状態を気にする必要はもうない。練習や試合に備えて、右足のほぼすべてを覆い尽くすようにテーピングを巻く必要もない。選手から元選手へと変わった初日に抱いた偽らざる心境を、鹿島アントラーズのユニフォームを脱いだ内田篤人は穏やかな表情で打ち明けた。

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「正直、やっと終われるという気持ちの方が強いです。自分をセーブしながらプレーしてきたのは、変な話、試合に出るとか出ないとか、あるいは試合に勝つとか負けるとかよりも、自分のなかですごく辛いことだったので」

 日本中を驚かせた電撃的な引退発表から4日。そして、味方選手の負傷退場に伴って前半早々にスクランブル出場を果たし、後半アディショナルタイムに放った現役最後のクロスで奇跡の同点弾を導いてから一夜明けた24日に、オンライン形式で行われた引退記者会見。決断を下した時期を問われたスーツ姿の内田は、12日の清水エスパルスとのYBCルヴァンカップだったと明かした。

「昨シーズンが終わった時に、もう契約は(更新)してもらえないかなと少し思っていた部分がありました。そのなかでもう1年、チャンスをもらえたという印象でしたが、この前のルヴァンカップが終わったあとに、そのまま強化部の(鈴木)満さんのところへ行きました。チームの助けになっていないというのと、このまま契約を解除して引退させてほしいというのを言いました」

「鹿島の選手らしい立ち振る舞い」

 1990年代から強化の最高責任を務める鈴木満取締役フットボールダイレクターへ、今シーズンいっぱいまで結んでいる契約を今月いっぱいで解除し、ユニフォームを脱がせてほしいと申し出た。鈴木フットボールダイレクターを含めて、唐突の展開に誰もが驚いた光景は容易に察しがつく。

 しかし、愛してやまない古巣へ復帰して3年目を迎えていた内田は、決して衝動的に引退を決断したわけではなかった。常勝軍団の伝統を次の世代へ紡がせてほしいとラブコールを受けて、ドイツ・ブンデスリーガ2部のウニオン・ベルリンから移籍して3年目。日本代表でも一時代を築いた稀代の右サイドバックは、自分自身のパフォーマンスに対して忸怩たる思いを抱き続けてきた。

「先輩たちがグラウンドでやるべきことをやってきたのを、僕はずっと見てきました。(小笠原)満男さんであり、ヤナギさん(柳沢敦)であり、(大岩)剛さんであり、僕が入った年には本田(泰人)さんもいたなかで鹿島の選手らしい立ち振る舞い、立ち姿には感じるものがあり、それが僕にはできていないなと。練習でも試合でもけがをしないように少し抑えながらのプレーを続けるなかで、例えば(永木)亮太とか、小泉慶とか、土居(聖真)らが練習でも100%でやっている。その隣に僕が立ってはいけないと思いました。カテゴリーを下げてとか、環境を変えるという選択肢もあったと思いますけど、鹿島以外でやる選択肢は僕にはなかった。なので、ここでやめさせていただきたい、と」

「サッカー選手として終わった」瞬間

 アントラーズにいまも強く脈打つ美学を貫いた、と表現すればいいだろうか。現役最後の一戦となった23日のガンバ大阪戦後に、県立カシマサッカースタジアムで行われた引退セレモニー。3分あまりのスピーチのなかで、抱いてきた美学を内田は言葉を途切れさせながら表現している。

「鹿島アントラーズというチームは数多くのタイトルを取ってきた裏で、多くの先輩方が選手生命を削りながら、勝つために日々努力する姿を僕は見てきました……。僕はその姿を……いまの後輩に見せることができないと、日々練習していくなかで身体が戻らないことを実感し、このような気持ちを抱えながら鹿島アントラーズでプレーすることは違うんじゃないかと、サッカー選手として終わったんだなと考えるようになりました」

 重度の炎症を起こしていた右ひざの膝蓋腱に、完全復活を期して2015年6月にメスを入れた。アスリートでは症例の少ない箇所であり、術後の経過を慎重に見守る必要もあったことから、ピッチへの帰還は2016年12月までずれ込んだ。しかし、全盛時の感覚にはほど遠かった。

 右ひざの痛みをさかのぼっていけば、右太ももを痛めたときにシャルケのチームドクターから勧められた手術ではなく、日本で受けたセカンドオピニオンの保存療法を選択。グループリーグの戦いに間に合わせ、鬼気迫るプレーで孤軍奮闘した2014年のブラジルワールドカップに行き着いてしまう。

 あらためて振り返ってみれば、2014年を境に内田のサッカー人生は激変している。オンライン会見ではこんな質問も飛んだ。ここまで後悔はなかったのか、と。内田は迷うことなく即答した。

「考えればあると思いますけど、考えないようにしています」

 あえて過去は振り向かない。もう一度同じ状況に直面すれば、間違いなく保存療法を選んでいた。歩んできたサッカー人生に胸を張って向き合えるからこそ、もしも右ひざをけがしていなかったら、という問いに対して、内田は「まったく考えたことがないですね」と苦笑いを浮かべた。

「この右ひざと付き合ってサッカーを続けてきたので。無理をしてこなかったらシャルケにもいけなかったと思いますし、鹿島にもこのように送り出してもらえなかった。自分の限界だったと思います」

内田なりの配慮

 出場機会は訪れなかったものの、8日のサガン鳥栖との明治安田生命J1リーグ第9節で、内田は今シーズンで2度目となるベンチ入りを果たしている。声で仲間たちを鼓舞しながら、2-0で逃げ切った一戦をピッチレベルで目の当たりにしたとき、決断するときが近いと内田は感じた。

「残り10分、20分のプレーを見て、この強度に自分の体が耐えられないと思って迎えたエスパルス戦でした。前半は抑えながらプレーしましたが、後半はもうもたない。もっと言えば、行けるところに行けないシーンが自分のなかで数多くあった。その意味でルヴァンカップ、あの試合が自分のなかで『辞めなきゃダメだ』という後押しになったのかもしれません」

 強化部から引退の了承を得た内田はシーズン途中で、しかも今月で最後のホームゲームとなるガンバ戦をラストマッチにすると決めた。そして、何人かのチームメイトたちに決断を伝えた。その一人が41歳になったばかりのチーム最年長、ゴールキーパーの曽ヶ端準だった。

「まだできると、一番しつこく言ってきたのがソガさん(曽ヶ端)ですし、一番寂しそうにしていたのもソガさんでした。(中田)浩二さんが辞め、(小笠原)満男さんが辞めたなかで、黄金世代で鹿島の象徴的な選手としてソガさんは残ってくれています。後ろにいてくれると安心感や存在感があるので、これから僕は一人のファンとしてソガさんのユニフォームを買って応援したい」

 一方で昨シーズンに自身が1年だけ担ったキャプテンを、今シーズンから託している24歳のボランチ、三竿健斗にはメディアで報じられるまであえて伝えなかった。そこにはクールに映っているようで周囲への気配りを決して忘れない、内田なりの配慮が込められていた。

(取材・文:藤江直人)

【後編に続く】

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