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日本代表 1年前

中村俊輔が感じる指導の難しさ。12年前の悔しさを知る元サッカー日本代表2人への期待【コラム】

シリーズ:コラム text by 元川悦子

真のプロフェッショナルだった駒野友一



 一方の駒野だが、代表デビューは2005年東アジア選手権・中国代表戦。そこから一気に2006年ドイツW杯代表入りをつかみ、加地亮のケガもあって初戦・オーストラリア代表戦で先発出場を勝ち取った。だが、ラスト6分間に3失点。しかも3失点目はジョン・アロイージに駒野がぶち抜かれ、決められたもの。彼自身、絶望の淵に追い込まれたという。

 その後、オシム体制では左サイドバック(SB)のレギュラーに定着。本職の右ではなかったが、持ち前の献身性を押し出し続けた。ところが、2007年11月にオシムが病に倒れ、岡田監督が後を引き継ぐと、内田篤人と長友佑都の2人が台頭し、駒野は「両SBの控え」という不本意な立場に置かれる。辛抱強い男は「いつかチャンスが来る」と前を向いたが、大会直前の韓国戦で内田が負傷すると、指揮官が抜擢したのは今野泰幸。これにはさすがの駒野もショックを受けたという。

 だが、最終的にはその今野も負傷し、駒野が大舞台に立つことになる。4試合のフル稼働ぶりは凄まじかった。世の中からは最後のパラグアイ代表戦のPK失敗ばかりが取り上げられるが、駒野の堅守がなければ、日本代表の16強入りもあり得なかった。鉄壁守備陣の一翼を担った貢献度は高く評価されるべきだ。

 その後の4年間も駒野は代表で戦い続けた。アルベルト・ザッケローニ監督も内田・長友という欧州で活躍する2人をメインに据えたが、両SBをこなせる駒野も重宝した。しかし、2013年コンフェデ杯で惨敗するとベテラン切りを断行。中村憲剛、前田遼一らを外し、若い世代を抜擢し始める。結局、駒野の3度目W杯は夢と消えたが、国際Aマッチ78試合出場という数字は称賛に値する。黒子としてチームを支える姿勢も含め、真のプロフェッショナルだったのは間違いない。

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