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日の丸をつけるということ――。W杯に出られなかった時代の証言

text by 海江田哲朗 photo by Tetsuro Kaieda

故・森孝慈が激昂した日

日の丸をつけるということ――。W杯に出られなかった時代の証言
森孝慈氏【写真:Tetsuro Kaieda】

 森孝慈(11年7月17日死去)が選手に対し、日の丸の持つ意味について激昂したのは一度だけだ。81年2月、東南アジアに遠征した時のこと。当時の監督は川淵三郎。森は次期監督が内定しており、スタッフとして加わっていた。

 アバウトな試合運営により開始時間が遅れるなどの不手際が多く、チームには弛緩した空気が流れていた。

「お前たちは日本サッカー協会の登録者40万人の代表なんだぞ。みんながお金を出し合って、送り出してくれているんだ。胸に日の丸をつけて、こんな締まりのないゲームをするな。恥ずかしいと思わんのかッ」

 なお、09年4月時点の集計で、日本サッカー協会の登録者数(指導者や審判員などを含める)は131万4565人を数える。

「メキシコ大会の予選は、準備段階から試合を重ねながらだんだんチームが出来上がってきて、やりようによっては勝てる可能性が出てきたなと思えるほどに成長した」

 個々のプレーも少しずつ変化した。木村はディフェンスで身体を張り、それを見た日産のチームメイトは「和司さんがスライディングするのを初めて見ましたよ」と笑った。森は木村に守備をしろと言っていない。本人が必要に感じたことを実行し、自然とそうなっていったのだという。

 それでも韓国の壁は高かった。大会終了後、森はサッカー協会の幹部にプロ化を強く進言する。

 かつて日本代表チームの練習場といえば、千葉県の検見川グラウンドが定番だった。

 合宿や大会のたび、宿舎にはファンから果物などの差し入れがあったという。また、森は支援者から陣中見舞いを受け取っていた。中には毎回2、3万円ずつ包んでくれる人もいた。森は一切手をつけず、大事に貯めておいたそうだ。そのお金は、チームが解散する頃にはそこそこまとまった金額になっていた。

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