フットボールチャンネル

日本代表 2年前

サッカー日本代表、ワールドカップ背番号7の系譜。中田英寿、遠藤保仁、珠玉のゲームメイカーが放った存在感

シリーズ:編集部フォーカス text by 編集部 photo by Getty Images

サッカー日本代表 最新ニュース

 日本代表は初出場となった1998年のフランスワールドカップから数えて6大会連続でワールドカップ本大会に出場している。背番号7を背負った選手たちは、大舞台でどのような活躍を見せたのか。今回はワールドカップで7番を背負った日本代表選手を大会ごとに紹介する。※所属チームは大会前時点、年齢は初戦時点のもの。(2020年5月掲載の記事を再編集したものです)


フランスW杯

0501daihyo1998
アルゼンチン戦の先発メンバー

監督:岡田武史
戦績:グループステージ敗退

背番号7:伊東輝悦(清水エスパルス)
生年月日:1974年8月31日(23歳)
個人成績:0試合出場/0得点0アシスト


【今シーズンの欧州サッカーはDAZNで!
いつでもどこでも簡単視聴。1ヶ月無料お試し実施中】


 静岡県清水市出身の伊東輝悦は、地元の東海大一(現・東海大翔洋)高校卒業後に清水エスパルスに加入した。3年目の1995年にレギュラーを獲得すると、96年のアトランタ五輪にブラジル戦でゴールを決めて「マイアミの奇跡」の立役者となっている。

 岡田武史監督はフランスワールドカップアジア予選に1試合も出場していなかった伊東を、本大会直前のスイス合宿に招集した。25人が参加した合宿メンバーから、本大会に登録される22人が選ばれることとなり、伊東は落選される可能性が高いとみられていた。しかし、結果的にメンバーを外れたのは18歳の市川大祐と三浦知良、そして北澤豪の3人。伊東は22人のメンバーに滑り込んだ。

 このときの日本代表は21歳の中田英寿がトップ下を務め、背番号10をつけた名波浩と山口素弘が中盤の底でプレーしている。中盤の3人は替えが利かない存在だったため、本大会で伊東に出番が回ってくることはなかった。

 フランス大会後も所属する清水では活躍を続け、フィリップ・トルシエに指揮官が代わった日本代表ではキャプテンを務めることもあった。しかし、2002年3月に左膝の靭帯を負傷してしまう。メンバー発表の5日前になんとか復帰した伊東だったが、本大会のメンバーからは漏れている。

【次ページ】日韓W杯

1 2 3 4 5 6

KANZENからのお知らせ

scroll top