レッズの守護神・西川周作選手の軌跡をたどる。小学生から始めたゴールキーパーと自分
オシムジャパン時代の2006年に日本代表初招集を受け、2009年10月の香港戦(清水)で国際Aマッチデビューを果たして以来、西川周作(浦和)は日本を代表する名GKとして確かな実績を残している。大分県宇佐市で育った小中学校時代はGKコーチ不在の環境で練習に勤しみ、大分トリニータのアカデミーでその才能を大きく開花させた彼に自身の少年時代を振り返ってもらった。(『ジュニアサッカーを応援しよう! Vol.33夏号より一部転載』)
2014年11月20日(木)15時00分配信
小学生時代は『動けるデブ!?』
――西川選手は大分県宇佐市出身ですね。
「はい。のどかなところで、小さい頃は外に出てみんなでサッカーしたりするのがつねでした。家の近くの幼稚園に通っていたときもそうでした。
すごいキック力のある女の先生がいて、よく真似していました。ただ、当時はまだJリーグもなかったし、サッカー選手になりたいとは考えていませんでした。
幼稚園の頃の夢は警察官。みんなを守ってくれるヒーローだと思っていましたからね(笑)」
――ご兄弟は?
「6つ年上の姉がいます。ケンカもしましたけど、年が離れていたし、可愛がってもらったかな。両親も『自分の好きなことをやりなさい』という感じでした。
お父さんは三重にいた高校時代に野球をやっていて、僕にも野球をやらせたかったみたいです。よくキャッチボールをしたり、バッチィングセンターに連れてってくれたりしましたから。
僕がサッカーを選んだときは少しがっかりしたかもしれない。でも何も言いませんでしたね」
――少年団に入ったのは?
「四日市南小学校に通っていた3年のとき。全盛期だったカズさん(三浦知良=現横浜FC)に憧れていて、点取屋を目指していました。
だけど当時の自分はかなりふくよかな感じだった。言ってみれば『動けるデブ』ですね(苦笑)。
ホントによく食べていましたからね。牛乳もいっぱい飲むし。だからDFで使われることが多かったです」
――GKになったきっかけは?
「4年生のとき、指導してくれた是永(哲也)監督から『やってみろ』と言われたのが最初です。
ある日の練習試合にGKが欠席して、ちょうどデカかった自分が指名されたんです。最初は正直、嫌でしたね(苦笑)。
GKって飛ぶと痛いし、アザができるし、練習着もドロドロになってお母さんも洗濯が大変だし、やりたくなかった。『いつもFWに戻ろう』という気持ちでした。
でもやっていくうちにシュートを止めて感謝されたり、ヒーローになれたりすることが分かって、楽しくなってきた。『もしかして自分に合っているのかな』と思うようになりましたね」