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Jリーグ 1年前

「もっと稼がないと」長友佑都が後輩から学んだ姿勢とは?FC東京が徹底したすべきこと【コラム】

シリーズ:コラム text by 藤江直人 photo by Getty Images

長友佑都が叶えた夢



 言葉の合間から努力を重ねてきた跡が伝わってくる。例えば小学校6年生のときに当時四国サッカーリーグを戦っていた、愛媛FCのジュニアユースのセレクションを受けるも不合格を告げられた。

 いまも恩師と慕う井上博教諭に出会った中学時代。徹底した走り込みで無尽蔵のスタミナのベースが作られた一方で、3年の夏には怪物・家長昭博を擁するガンバ大阪ジュニアユースとの練習試合で完敗。帰りのフェリーで悔し泣きしながら、当時の最強チーム、東福岡高への越境入学を決意した。

 部員150人の大所帯だった東福岡では2年生でボランチのレギュラーを獲得。3年生になってようやく全国高校サッカー選手権に出場するも、PK戦の末に初戦で市立船橋に敗れた。全国的には無名の存在だったために、スポーツ推薦ではなく指定校推薦で明治大学政治経済学部へ進学した。

 しかし、入学からほどなくしてヘルニアを患い長期離脱を余儀なくされる。リハビリと同時に体幹も徹底強化した相乗効果で、復帰後はサイドバックとして一気に頭角を現す。当初は嫌々コンバートされたサイドバックでのパフォーマンスを、練習試合で対戦したFC東京に見初められた。

 2007年のJFA・Jリーグ特別指定選手を経て、4年生に進級した2008年には卒業を待たずに、体育会サッカー部を退部して正式にプロ契約。Jリーグが16周年を迎えたシーズンだった。

 以降の軌跡はあらためて説明するまでもないだろう。2010年夏にセリエAのチェゼーナへ、翌年1月には名門インテルへ移籍。7年間にわたってプレーし、副キャプテンも務めた後はトルコの強豪ガラタサライ、そしてフランスの名門オリンピック・マルセイユとヨーロッパの舞台で暴れ続けた。

 日本代表では歴代2位となる通算142キャップを獲得。子どもの頃から憧れてきたワールドカップには南アフリカを皮切りにブラジル、ロシア、まだ記憶に新しいカタールと4大会連続で出場。すべて先発で出場した15試合は、ワールドカップにおける日本代表選手の最多記録となっている。

 決して大きくはない身長170cm体重68kgの体に、あふれんばかりのバイタリティーと真っ赤な闘志を搭載。数多くの夢をかなえてきた鉄人は、37歳になるシーズンに何を目指しているのか。

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