北海道の熊になってたまるか――。釜本氏との信頼と深い愛。クラマー氏が残した世界基準の育成術

9月18日に90年の生涯を終えて、天国へ旅立ったデットマール・クラマーさん。日本サッカー界初の外国人コーチが残した軌跡を振り返る上で、日本が生んだ不世出のストライカー釜本邦茂の才能を見出し、その成長を加速させた師弟関係は欠かせない。2人のやり取りからは、21世紀のいまも変わらない指導者としてあるべき理想の姿と、クラマーさんが「日本サッカーの父」として愛された理由が伝わってくる。(文中一部敬称略)

2015年09月24日(Thu)10時39分配信

text by 藤江直人 photo Getty Images
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実現せずとも世界基準に達していた釜本氏

北海道の熊になってたまるか――。釜本氏との信頼と深い愛。クラマー氏が残した世界基準の育成術
9月18日に90年の生涯を終えて、天国へ旅立ったデットマール・クラマー氏【写真:Getty Images】

 メキシコ五輪で日本代表が銅メダルを獲得してから7年後の1975年。クラマーさんは母国・西ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンの監督に就任している。

 当時のバイエルンは、皇帝フランツ・ベッケンバウアー、爆撃機ゲルト・ミュラーをはじめとする西ドイツ代表選手たちを擁していた黄金期。いきなり欧州チャンピオンズカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)を制しながら、クラマーさんは幻に終わったプランを幾度となく嘆いていたという。

「カマモトがバイエルンに移籍していたら、ミュラーとの史上最強のツートップが誕生しただろう」

 メキシコ五輪で7ゴールをあげて得点王を獲得した当時24歳の釜本に、クラマーさんはこんなアドバイスを送っている。

「これからプロの話が出るだろう。お前は世界でもまれろ。でも、ビッグクラブに行かなければダメだ」

 実際、日本リーグのヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)でプレーしていた釜本のもとには、ウルグアイ、メキシコ、フランス、西ドイツの4つのクラブから直筆の手紙、いまでいう移籍のオファーが届いていた。

「だけどね、僕がウイルス性肝炎にかかったのであきらめたんですよ」

 突然の病に倒れたのが1969年6月。トップコンディションを取り戻すまでに数年を要したことで、日本人の第1号プロになる夢はかなわなかった。

 それでも、おそらくは日本人選手として初めて海外クラブからのオファーを受けた事実が、釜本のプレーレベルが世界基準に達していたことを物語っている。

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